「談話室」はサイトウ歯科に来院中の患者さんより

お寄せいただきました文章を、原文のまま、ご紹介しています。

悲㐂こもごも

                                                          大田区 佐藤伸雄(80)
 何事かと思われそうですが、私の歯医者さんとのお付き合いを、やや大袈裟に言った迄です。というのも‘中・高’のクラスメートの2人もが入っていて、戦中・戦後の狂乱怒涛の時代を思い出すからなのです。
 私が尋常小学校に入った年に盧溝橋に端を発した大戦争が始まり、小学校は国民学校となり、都心にある私立の中学校へ進んだ時には5年制が4年制に短縮されており、勤労動員に駆り出されていた3年の時に敗戦。私達の学年は5年制に復活し、さらに新制高校が出来たので、同じ講堂での2年続いての卒業式を体験しました。母校も自宅も空襲で焼かれましたし、疎開したまま再会出来なくなったクラスメートも少なくありません。
 飯田橋にあった出版社に勤めていた時、近くにある歯科大に進学したF君にばったり出会い、その歯科大付属病院に通う事になりました。F君の実習に役立った筈ですが、彼も良くしてくれました。それに敗戦直後の苦しかった頃、F君の父上が上野の博物館の館長だった事から、しばしば招待券を頂いて、私を美術史の勉強に導いてくれたりしたのでしたから、良い思い出となっています。
 30代頃、自宅近くの某先生は、1本だけだったが20万円の請求でびっくりした私に、うちは保険は扱わないとの事。そういう事は最初に言う事だろう、とこちらから縁を切りました。近所だから顔を合わせても、軽く頷くだけになりました。
 次が40代の頃の、F君同様のクラスメートのY君。その頃講師をしていた専門学校の帰りに立ち寄れる便利な所で開業していたので何年か通っていたのですが、グラグラになった1本を抜いてもらった時、総入れ歯にしようと言われ、ついて行けなくなりました。はっきり断るのも角が立つし、クラス会で合っても当たり障りの無い事しか話せなくなりました。そして、8年前に亡くなった事を知った時は複雑な気持ちでした。
 このY君の総入れ歯云々で困っていた時、小学校の教師だった妻から、このサイトウ歯科を勧められました。校長先生の話の時はざわついている子供たちが、校医の斉藤先生の話にはシーンとして聞いている、というのには驚きました。今の院長先生のお父上です。
 だが、少々ためらいました。蒲田は私の行動圏ではなく、子供の頃のマイナスの思い出がありました。私は池上第二小学校(池二)でしたが、自宅は池二の学区の端っこで、子供の足ではかなり遠かったのですが、遠足の時などにはその池二から、蒲田駅まで歩くので、うんざりしていたのです。それに中央5丁目の自宅最寄りのバス停からは蒲田行きが、今のように頻繁では無かったからです。
 ところが、実際にお世話になってびっくりしました。まず、歯周病の治療に先立っての検査で、口内の細菌の動きをテレビの画面で見てのショック。お世辞ではなく、先生も歯科衛生士さんも親切で気分の良い方々で、一度も嫌な気分にならずに今日に至っています。先代の先生やその頃の医院の良さを、今の先生たちが見事に受け継がれ、発展させておられるといって良いでしょう。今後ともどうぞ宜しくお願いしたく存じます。